2014年03月13日

без названия

今朝は6時40分ごろ起床。外を見てみると予報されていたほど深刻そうな様子もなく、しかも今後の予報を見てみても移動に支障をきたすような感じがしないので、今日も前言撤回をかまそうかと考えたのだが、それでも部屋の掃除にだいぶ時間を割いてしまったので状況は明日にお預け。
さて本日はエアコンが取り外されてしまう予定で、業者とのコンタクトを避けるべく午前中は図書館に籠ってTOEIC対策をほんの少ししてから『名ばかり大学生 日本型教育制度の終焉』を読んだ。この本は素晴らしい見解といい加減な考察がごちゃ混ぜになっている不思議な構成をしているのだが、いい加減な部分に注意すれば、とても示唆に富んでいる内容であるように思えた。
中でも、大学生の勉強の出来なさをそれまで家庭や義務教育、或いは高校で受けてきた教育のせいにする大学教員に対して、大学教員のそういったやる気の無さこそが一番の原因ではないのか、といった指摘はとても的を得ているように思えた。東京大学のとある学部で長年にわたり同じ試験を課しているが、年々出来が悪くなっているとして近頃の学生の頭の悪さを嘆いている指摘に対しては、それは大学の初期教育の失敗であり、嘆いている大学の関係者の無責任さにあると言っている。
大学の教員が、大学生に問題を感じるならば、入学後教育と試験制度を見直してみるべきである。

ちなみに、この本はタイトルにあるような大学生そのものを批判するようなものではない。

昼に部屋に戻ってきてもエアコンはそのままであり、業者の車や作業中の音も聞こえてこない。果たして本日は作業があるのだろうかと気になりつつも、気配を察したらいつでも外に出られるような体制を整え、読み返している『系統樹思考の世界 すべてはツリーとともに』を読むつもりであったが、先の本につられて若者論を読みたくなったので購入後長らく放置していた(実は以前に90ページほど読んでいたららしい)『なぜ若い世代は「キャラ」化するのか』を段ボールから掘り起こして読むことにする。610は誰かに「キャラ」というレッテルを貼ることや、或いは反対に自分に何らかの「キャラ」が与えられることになじめないでいるのだが、その気分を端的に表した表現を見つけた。
「天然キャラ」と友人に決められ、それを気に入ったとしても、「天然キャラ」を自覚してしまうことで、それを維持するために演技が関わってくるのではないでしょうか。つまり、このような経過は、「天然」が次第に演技という名の「計算」になると表現できます。

610はしばしば変人扱いされるが、そう言われることで自分が変人を演じることに憑りつかれてしまうのではないかという恐怖を感じている。

キャラというレッテルを与える画期的な場として、ある学類の新歓活動で行われるらしい「あだ名付け」という慣習を思い出した。何でも新歓委員を名乗る2年生が、大学の事情をよく知らない1年生を囲い込み、その場で即興的なあだ名をつけるのだという。何らかのあだ名をつけることでヨコ(あるいはタテ)の人間関係が円滑なものになるという点で意味のある行いだとは思うし、あだ名がその人のキャラと結びつかないもの(例えば氏名に由来するもの)なら以下に述べる憂慮の対象外だろうが、その時のイベントの雰囲気で安易なキャラ付けが行われるのだとしたら問題である。
例えば、2年生が下品な話題―かつて610は何フェチかを問われたが、意味が分からず答えなかった―を1年生にけしかけ、その時に1年生が発した言葉がその人のあだ名に選ばれたとしよう。そのあだ名がその時の会場のノリで受け入れられてしまった場合、その1年生には大学を出るまで下品なあだ名と学生生活を共にしなければならない可能性がある。必ずしも上級生が直接任命するとは言えないが、どうせその場の雰囲気を作るのは新歓活動をしている自分たちに依っている2年生なのだから、彼らがあだ名付けに最も関与することになろう。そんな彼らが新入生の学生生活に影響を与えかねない下品なあだ名を与えるとしたら、何とひどい暴力であろうか。
下品なあだ名が価値を持つようになってしまうと、そのあだ名が付けられたその人のキャラであるかのような誤解を生じ、そのあだ名によって種々の不利益を被る可能性があるが、その元凶は(近視眼的には)ウケが良いものであれば容易に採用してしまう新歓委員や新歓活動にあるといえる。
610がこんな掃き溜めで呟いていることは偉大な妄言と断言できるが、真実が紛れ込んでいないとも言い切れない。何が言いたいかというと、こういう事態はおそらく毎年のように繰り返されている。きっと、引継ぎの時にこんなことに関する反省を誰もしないのだろうし、そもそもレッテル貼りの暴力性を認識していないのかもしれない。新歓活動ではこういったことを行おうという機運も無いのだろうなあ。大学で学問を学ぶということに立脚すれば、新歓委員に求められるものは、周りの人たちをキャラ付けしたり、そのキャラの相互確認に終始するような表面的な交流をすることではなくて、なぜキャラを与えるのかとか、キャラの是非を考えるとか、そういった根源的な問いを発することであっても良いと思うが…そんなことしたら誰も来ないかあ・・・

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ちなみに気配を察することに失敗し、結局エアコン取り外しの業者の方々と居室で過ごすことになってしまいました。水に浸けられているスイジガイやトビなどの骨、机の上に無造作に置かれたリュウキュウイノシシの頭蓋骨を見てどう思われたことでしょう。
さて明日は科博・浅草(着物探し)・鳥の博物館・我孫子詣でを行う予定です。  


Posted by Impulse610 at 13:53Comments(0)