2013年08月25日

こうして私は独りになる

日中はやせ細ってしまったタゴガエルのエサを確保しに行ったり、あるいはシマヘビ用の容器やシェルター等を求めに川崎へ出向いたり、あるいは水物の水、シリケンイモリのミズゴケを交換したりしていた。

しかしながら、川崎駅前の人ごみっぷりが何とも耐えがたいものであった。今すぐにでも針江へ、あの防砂ダムへ逃げ帰りたいほどに不愉快で、道行く人々に軽蔑の思いを抱いていたのだからたちが悪い。なぜ彼らはこんな場所でも楽しそうにできるのだろう。

市街地で抱く不快感は、残念なことに家に帰ってもぬぐえない。この時期には24時間テレビなる番組が流れていて、理由は分からないが我が家でも写されている。この番組では様々な特徴とか背景を抱えた個人あるいは団体についてやたらに取り上げているようだが、彼らを見世物にしているという事実を「感動」というフィルターによって美化していることに無上の不気味さを覚え、目が当てられない。こういう番組を見ながら涙できるような大人になれたら、人ごみを歩くことにも芸能人を語ることにも苦労を感じなかったことだろう。
ちなみに、やどけん合宿中にたまたま24時間テレビのような番組が流れ、障害者の子どもが楽器を演奏していた。直観的に、これは見てはいけないと感じ、チャンネルの変更(というより、テレビを消すこと)を要望したのだが、こういう場面で我々は「感動」することを要求されているのであり、その演奏の質によらず、最大級の賛辞を送らねばならない。一方的な解釈の仕方を、障害というレッテルによって強制する放映の仕方は、あまりフェアなものだとは思えない。
障害について考えてもらいたいのなら、もっと「ほんとうのこと」を言えるような、演奏が下手なら下手だと言っても、「お前は人間じゃない」などと思われないような、そういうテーマを与えるべきだと思うのだが、そうはいかないのだろう。そうして、不毛な議論が続くのだろう…


こういうことに関連しているのか分からないが、610は過去に深い交流をしてきたはずの組織や個人と、もはや会おうという意志が湧いてこないのである。特に学校関連において顕著で、小中学校はもとより、当時は最高の空間だと思っていた高校時代のクラスすら、この先数多企画されるであろう集まりに行く意欲が湧かないのである。
その理由をパッと言い切ることはできないのだが、今まで関わってきた人たちが抱く「空気」が、結局は610にとって不適であったこと、それから610が大学生になるまでの同期の中に、生き物談義ができる人が皆無であったことが何らかの影を落としているのであろう。特に後者は深刻で、例えば33Rで泊りがけのイベントがあったとしても、610は遊園地には理由をつけて行かないだろうし、河原でバーベキューなどしたら料理には一切手を付けずずっとカワラバッタの相手をしているだろうし、夜は花火で盛り上がる人たちをしり目に一人街灯めぐりに燃えていることだろう。要するにこれまで所属してきた学校の団体という囲みの中で、団体の一員として行動ができないのである。

610に必要なのはゴールデンウィークの宝篋山であり、梅雨時の湿地であり、盛夏の菅平であり、せせらぎの防砂ダムである。人ごみは人の生きる土地にあらずして、テレビは人の見るものにあらず。遊園地は人の遊ぶところならずして、華美な服装は人の着るものにあらず。ケータイゲームは人のすなるものにあらずして、流行曲は人の聴くものにあらず。これを解せない人とは、遅かれ早かれ、疎遠になるのであろう。

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さて、明日から下田で実習です。結局、29日の朝まではマジメに参加し、単位を捨ててロシア行きの準備をすることにします。
目標としては、オカダトカゲとヒメマイマイカブリに会いたいものです。海では何でもいいからへんちくりんな大きなものを見たいですね(´Д`)  


Posted by Impulse610 at 18:10Comments(0)