2014年10月31日

葬崩災で不毛なバトルは起こらないでほしい… 

今朝は7時起床、選択をして8時出発。9時から先輩の予備審査スライドの確認作業を研究室メンバーで行い、気が付けば4時間程度経過していた。昼食後ミネトワダカワゲラに隷属し卵固定を終えてから上田へ買い物に向かう。戻ってきて夕食後帰寮。

~・~・~

さて明日は夜遅くにつくばに向かいますが、その前にカワゲラに隷属したり、車を掃除したり、荷物整理をしたりしないといけません。忙しそうです。
で、葬崩災自体は明日の夜から始まります。やどけんには関係のないことですが、展示においてある懸念があるので、それを追記で書いておきます。

どうやら今年は芸専の目玉企画の一つであった芸バーが中止に追い込まれたようです。twitter上では色々な意見が噴出しているらしいですが、やどけんの展示にとってこの出来事は対岸の火事では済まされない可能性があります。単なる考えすぎのきらいもありますが、思い浮かんだことをつらつらと書いておきます。おそらく現会長の目に留まると思うので、一考していただければと思います。


まず最初に最悪の事態を想定します。すなわち、展示内容に文句を言い、声を荒げて撤収を求めた場合とか、持ち出しを図った場合、「動物解放」を宣言して外に生き物を逃がしたり、骨や皮を埋葬された場合などです。こういう時にtwitterで実況中継をする必要はありません。音声を録音するか動画を撮影してください。

次に、芸バーの出来事を受けてやどけんの展示にも波及があるかもしれないことをメーリスか何かで参加者に伝えておいた方が良いと思われます。そんなピリピリした雰囲気で展示したくないところですが、世知辛い世の中です。

さて、やどけんの展示で波乱を産みそうなものは骨格標本と剥製です。

1.骨格標本や仮剥製の展示について
一般的な方は動物の遺体を見慣れていないので、骨や皮、剥製はある程度のインパクトを与えることでしょう。その解釈は時に我々に牙をむきかねません。
展示する側としては、大学における文化祭という立ち位置から、これら標本は見世物にするために集めているのではなく、生き物が好きなサークルのメンバーたちによる知的好奇心の探求の足跡であるとか、放っておけばゴミになるような動物の遺体に学術的な意義を込める方法の認識・理解の仕方を知ってほしいといった意味づけを行っているはずです。

ただし、標本に学術的意味があることと、我々が本当に研究活動を行っているかどうかについては別の問題です。標本を収集し、データを取り、論文という形で公開することを狭義の「研究」とするならば、標本を集めることだけに特化しがちなやどけんの活動は「研究」であるとは言えません。でも、サークルのメンバーの知的好奇心に従って遺体を拾い、標本処理を施し、学術的な意味づけを与える行為は「「研究」でない」の一言で唾棄できるのでしょうか。この論理、プロのピアニストでなければピアノを弾くなと言っているのと構造的に同義です。

ここでは「殺した動物を扱う」ことに関して目を背けていますが、それはのちほど…

2.本剥製の展示について
さて、今回はヤマドリの本剥製が展示されると思われます。これについて私はやや懐疑的な見方をしています。

私は遺体の処理の相談を受けたときから仮剥製にしておきたいと要望を出してはいたのですが、それは適いませんでした(そうした方が料金も安く済むし、保管場所にも困らない)。その上豪華な装飾も施されてしまっていて、個人的には本剥製は道楽の延長というか権力の象徴というか世俗的な印象を抱かせ、展示品としては不釣り合い(場違い)に感じます。さらに、本剥製は仮剥製よりも「見世物」感が強く、動物愛護的な観点から非難を受けやすいように思えます。
もちろん、そこに善悪の判断は求めていませんし、だからといって展示の撤回を要求しませんよ…そういう迫害をしたいわけではなく、内部でもこういう考えをしている人がいる中、本剥製にどういう意味付けを与えているのか、気難しい意見にどう対応するのかも含めて、遺体の発見から中心的に関わり、剥製に対する思いも強いであろうJ氏にうまく立ち回っていただければと思います。

3.JAVAの解剖イベント中止について
日頃から動物の遺体を扱っている私にとって衝撃的な出来事がありました。直接この記事に言及はしませんが、以下の文章ではこの内容を念頭に置いています。
博物館での死体解剖イベント、中止となる! | NPO法人 動物実験の廃止を求める会(JAVA)

骨格標本や剥製は動物愛護的な観点から攻撃を受けやすい標本であると思います。これは悩ましいことで、解剖や剥製づくりをしないことが本当に動物たちにとって優しいことであるのか、そういう社会が動物たちにやさしい社会であるのかという所から議論を始めなくてはなりません。合意を得るのは難しそうです。

何というか、閉塞感を覚えます。たしかに動物愛護は正しく、解剖や剥製が誤っているという意見は世論に迎合しそうですが、そこには「動物を愛する者は解剖や剥製ができるはずがない、それができる人は動物を愛しているのではない」といった極端な二元論というか、優生思想的な危険が見え透いています。このあたり、芸バーに関しても同じです。性的マイノリティに対して差別をしてはいけない、という絶対の正義があって、それに背くありとあらゆるイベントを絶対に許さない/認めない感じと表裏一体です・・そんな簡単に割り切れるものなんですかね、人生って。

ちょっとそれましたが、動物愛護的な観点で剥製や骨格標本の展示が不適だという指摘を受けたときには、おいそれとそれに従うのではなく、理解されるのかはともかく、こちら側の展示の意図を伝える必要があります。ネット上での愛護を訴える主張を見ている限り、この手のものは声が大きいことを一番の武器としているようです。なので、それに怯えず冷静に立ち向かわないといけません。具体的には、

1.遺体を拾い解剖することと動物の命を軽視することとは根本的に独立である
2.動物の愛し方は人それぞれであって、「愛護」というのもそのあり方の一つであり、絶対的な正解は無い
3.動物の遺体をモノ扱いすることとはどういうことか

こういったことを繰り返し述べて、相互理解を得るまで戦うことになるのでしょう。相手が悪質であればその様子を撮影したうえで実行委員に助けを求め退場させるのもありでしょう(声が大きい相手の場合、真実を捻じ曲げて自己正当化を図る可能性があります。プライバシーの侵害だとか盗撮だとか言われそうで、私はその法的根拠を知らないのですが、ドライブレコーダーと同じセンスで、刑事事件への発展も視野に、こちら側に有利になる証拠を押さえておきたいです)。

1.については、動物を解剖することは動物の命を尊重している人にもそうでない人にも出来ることであることを考えると分かりやすいです。おそらく愛護団体の人たちには、解剖する行為がおしなべて動物の命を軽視している人にしかできないものと見えているようですが、そうではありません。
2.については特に言及することもないでしょうが、愛護の主張は時として一神教的になり、愛護することの絶対服従を強いることがあるということを留意しておきたいです。もうここまで来ると動物とは関係が無くなってしまいますが…

さてメインは3.です。動物の遺体をモノ扱いすることは愛護団体から強く非難されます。それに対して私は、なぜ問題があるのかよく分からない印象を持ちます。すなわち、恐竜の化石はモノ扱いしていいのでしょうか、それとも愛護の対象として考えるべきでしょうか
また変なことを言っていると思われそうですが、化石であっても過去の生物の遺体であること、命あったものに変わりはないでしょう。それを、はるか昔に死んだからとか、人為の及ぶ前の生き物であるから、とか理由付けをしてモノ扱いを許容するのであれば、その行為は「動物の遺体をモノ扱い」することと同義です。ちなみに、私の情報収集範囲は狭いものですが、未だに化石に愛護の概念を適用した意見を聞いたことがありません。
要するに、何らかの条件を付けない限り「動物の遺体をモノ扱い」することを防ぐことはできないのです。そして、その制限が生じた瞬間というのは、制限に漏れた動物に対する「モノ扱い」を認めている時でもあるのです。


―今年も平穏な葬崩災となりますように!


Posted by Impulse610 at 18:10│Comments(0)
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