2014年01月13日

新成人の派手さを馬鹿に、ネタに、足蹴にする人たち

成人式のときには決まって奇抜な格好をしている新成人を「一般人」が叩くわけだが、この構造って結構危険だと思うのは610だけだろうか。

だって、「常識はずれ」な新成人を叩いたり、ネットで画像を転載して言いたい放題罵倒する「一般人」の態度は、いじめとかマスコミの過剰な悪人叩きと同じではないか。
「一般人」はおそらく当事者意識が希薄で、610がこう指摘しても目を背けるか、あるいは「私は関係ないのに何だ、そうやって一般人ってレッテル付けて、お前は何様のつもりか!」と憤るだろう。

だからこそいじめが無くならず、マスコミの過剰な悪人叩きがお茶の間をにぎわせ続けるのである。

とりあえず「一般人」が攻撃対象にしがちな新成人を「花魁振袖」に絞って話を進めていく。

「一般人」が「花魁振袖」や見たときに「はしたない!」とか「成人式はそういう恰好をする場じゃない!」などと彼らに対して言う時、おそらく「一般人」はある種の「常識」に則って彼らを非難しているのだろうが、どうにも「一般人」は自分たちの常識というものが「正しい」もので、彼らの「間違った」常識を見下しているきらいがある。

自分たちの「常識」が絶対唯一の正義で、それに見合わないものを弾圧する態度に「一般人」は気が付いているのだろうか。

そりゃあ、着方がなっていないとか「下品であって色っぽさが無い」など文句を言いたい気持ちも分からないでもない。
しかしながら、そう思ってしまうのは私たちが「一般人の常識」が正しいと思い込んでいるからであって、そこには「花魁振袖」が掲げる「着付けのお作法」とか「色っぽさの基準」という尺度について何にも配慮していないからなのである。無配慮だからこそ「下品だ!」とか「間違っている!」とか「常識に合わせろ!」などと言ってしまうのである。

こういう「一般人」の偏った視野、自分たちの「常識」にそぐわないものに対して徹底的に攻撃を加える態度、自分たちの「常識」を「正義」だと誤解し、「正義」の名の下に「異端」を攻撃してはばからない暴力からは、ただただ不毛さしか得られない。

冒頭に少し書いことは、上のパラグラフの「一般人」を「いじめる側」とか「マスコミ」に置き換えてもおおよそ意味が通じるだろう。

―では、どうしたらいいのだろうか。
610にはよく分からない。分からないなりに考えてみると以下のような流れになる。

「自分は花魁振袖を着ている新成人よりも正しい人間ではないし、そういう人たちを無配慮に見下す資格も無い。そもそも優劣を比べる対象として彼女たちを見ることはできないはずである。
「あの人たちの常識と私の常識は違うもので、その違いを意識し続けなければいけないし、もちろんどっちが優れているとかどっちが間違っているなんてこともない。」
「大事なのは、私には私の常識があって、彼女たちには彼女たちの常識がある。それでいいじゃないか、と結論付け、そこでお終いにしないことである。ここで終わるのは、いじめる側にはいじめる側の論理があって、いじめられる側にはいじめられる側の論理がある。それでいいじゃないか、と結論することと同義である。」
「つまり、こういう常識の違いがなぜ生じてしまうのか考えることが大事で、お互いの常識を超えた新しい常識を創成していくことにある。」

上のカギカッコ文を書いていて思ったのは、自分の考えとか「常識」に固執しすぎて、相手の「常識」を一顧だにしない態度こそ、取ってはいけない態度だということだ。言い方を変えると、「常識」を崩されることを怖がってはいけない、となろうか。
確かに「常識」にしがみつくのは楽だろう。ただ・・・それでいいのだろうか。毎年のように新成人を罵ったり、彼らをエンターテイメントとして消費し続けていく・・・少なくとも、610にはこんな乾いた、差別的で、独善的で、排他的な思考に浸り続けて生きていくことはとても愚かに思える。そうではなくて、どうすれば彼らのことをヘンに思わずになれるのか考えていくことの方がよっぽどIMAGINE THE FUTURE.的ではなかろうか。

ともかく、本日は我がtwitterのタイムライン上に無配慮な新成人たたきのtweetが流れてこないことを願いたい。



Posted by Impulse610 at 06:10│Comments(0)
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