2013年07月08日

呑まぬ酒に祟りなし

今朝は6時半起床。随分疲れていたはずだが目覚めが快適だったのは、その分深く眠れたからなのだろうか。
発生生物学実験のレポートを創成し、提出する前にやどけんの部室へ立ち寄る。土日、随分暑くなっていたようだが、生き物たちは無事だろうか・・・なんと、キノボリトカゲ♂が死んでしまった! 単純に暑さだけが原因ではないかもしれないが、かなりショッキングだ。
呑まぬ酒に祟りなし


生前に撮った最後の写真である(2013/6/24撮影、右側)。一時真っ黒になってどうしたことかと思っていたが、温度変化と脱皮の影響だったようで、しばらくしたら体色も元に戻ったので安心していたのだが・・・

さて帰宅してしばらくして、創成したレポートを提出していない事実に気が付いた。幸いにしてまだ猶予があったので事無きを得たのだが、非常に心臓に悪い。

3限:インド古典語初級A
関係詞と代名詞的な名詞、それから数詞を学ぶ。

4限:
帰宅後、この日に発生した飲酒問題について考えを巡らせる。

5限:ヘブル語初級a
スミフートを学ぶ。と書いても、ヘブライ語に触れたことが無い人にとっては未知の概念だと思われるので解説を加えると、「610のブログ」のように、「の」で結ばれる表現がある。これは、ロシア語でいえば生格、サンスクリット、ラテン、アラビア語ならば属格と呼ばれる関係なのだが、これがスミフートである。いやはや、何とかっこいい表現だろうか。
スミフートに限らず、ヘブライ語の単語とか文法用語には響きのよいものが多い。個人的には、文字でいえばギメル
גּとかサメフ(ちなみに、フは軟口蓋摩擦音なので日本語で表記できない。ロシア語のхと同じ発音である)סּがお気に入りで、母音記号のセゴルとかクブツ、あとは先読みのパタフ、分離記号のマケフ、そしてギメルとサメフに記されている点、すなわちダゲシュなども勇ましい。

6限:専門語学(伊語)B-2
モジュール上初回の授業ではあるのだが休講。

~・~・~

近所の学生が急性アルコール中毒で死んでしまったようです。610は、この事件がtwitterで流れてきたので知ったわけですが、それを知ってからいろいろ考えてみた結果、地震ととすごく似ているところがあるなあと思ったのでした。地震が起こるメカニズムとか、地震が起きたときの人々の振る舞いなんてそっくりです。でも、地震の被害に遭った人に対する世間の目と、アルコール中毒で死んだ人に対する世間の目は、およそ対極なものだと思います。そのことについて、ここに書いておきます。
※実はここに至る前にもある考えに到達したのですが、それは追記に残してあります。

日本で起こる地震は、下敷きをまげて元に戻すときの動作に似ています。曲げていくにしたがってひずみができ、あるところで手を放すと一気に元に戻ります。そして、下敷きが曲がっている過程、つまりひずみがたまっている段階については、多くの人は気づいていません。
このプロセスと似たようなことが、この事件の背景にはあるのです。学生がたくさん棲んでいる住宅街ではしょっちゅう飲み会が行われていることでしょうが、万が一未成年者の飲酒が起こっていたとしても、彼らが直ちに除籍されたり、刑罰を受けるようなことは起こり得ません。むしろ、未成年が飲酒していることについて、良く言えば寛容で、悪く言えば無関心だったり黙認したりしています。誰かが死ぬとか、あるいは死ぬまで行かなくても病院に搬送される事態があって初めて大騒ぎになるのです。
610には、死んでしまった学生が参加した飲み会で、ひずみの限界を迎えたのだと見えました。

さて、地震で家とか友達とかを失った人がいたとします。そんな人に対して、「地震が起こりやすいところに住んでいるあなたが悪い」とか「リスクが分かっているのに、そこから引っ越さず住み続けたあなたに責任がある」などと言うことは、常識非常識の観念を超えた、人道に背く言行であるように思えます。こう決めつけるのはよくないですね。この様に思っていても、口走るには批判を甘んじる覚悟が必須、と補足します。
ところが、先の飲み会の場合では、これが至極平然と行われているようなのです。
「未成年なのに飲酒したのが悪い」とか「飲酒を強要した空気を作った参加者が悪い」とか「身の程を知れ」とかいう意見について、否定する人はそう多くありません。死んだ人にさらに追い打ちをかけていることについて、特に負い目を感じていない人が数多くいるように思えます。

例えば今回の件だと、死んでしまった本人だとか、その人が所属するサークルのメンバー、あるいは飲み会に参加していた参加者はちょっと調べれば直ちに本名まで割れてしまうことでしょう。というよりも、事件を知った人がまず最初に知りたいことだと思います。
ここが非常におかしいと思うのです。流石に、死んでしまった人が自分の知り合いだったり、あるいは身内だったりする可能性がある人にとっては知りたいことだと思いますが、それ以外の人が知りたがるというのはなぜなのでしょう。その場に居合わせた人の名前が分かれば、責任を追及できるからだと思っているのでしょうか。
なんというか、すぐに責任の所在を明らかにしようとしますよね。とりあえず、その場に居合わせている人が一番責任を負わされやすいようですが、地震でひずみがたまっていくプロセスに責任が無いのと同じように、たまたまその場に居合わせたメンバーもまた責任は無いのではないでしょうか。
こう考えている私がひねくれているのでしょうか、それとも死んだ人とか飲み会の参加メンバーの所在を知ろうとする人がひねくれているのか、判断は読者の方にしてもらえばよいのですが、610が思うのは、個人を特定して攻撃することはナンセンスだということです。だから、死んだ学生が所属していたサークルのwebページが閲覧できない状態になっているのは正しい処置だと思うのです。
※何か罪をしでかした人に対して、外野の人がひどい私刑を加えることが間々ありますが、これはなぜか容認されがちですよね。悪いことをした人には悪いことをしても良い、というのは100%正しいことなのですかね。悪いことをした人に危害を加えている人がどうして悪い人にならずにいられるのでしょうかね。

さて、地震でひずみがたまっていくのと同様、誰かがアルコール中毒で病院に搬送されるまでの間に、無数の飲み会が行われます。そこで病院送りの人が発生しなければしないほど、羽目を外せる確率が高くなったと勘違いしていきます。それを止める人がいないので、事態はエスカレートするばかり。しかも、いったん事件が起こっても終焉を迎えることはありません。日本でもいつ次の大地震がくるか分からない現状があるのと同じく、アル中で死んだ人が発生しても、しばらくするとまた同じことが起こります。

このサイクルの中から「容疑者」を見つけようとしても、それはとても困難に思えます。事件に最もかかわりのある人たちは確かに飲み会に居合わせた人たちですが、彼らに100%の責任を負わせることがどうしてできるのでしょうか。ひずみがたまっていくプロセスを考えると、彼らが背負うべき責任はせいぜい1%もないようにも思えます。
ブログを公開する時間合わせの都合上、一気に飛躍すると、残りの責任は外野にあるのです。そして、ここから責任の芽を刈り取ることはほぼ不可能で、だからいつまでたっても学生のアル中問題は解決しないのです。これについては後ほど・・・

こういう事件が起こると、しばしば死亡した本人の軽率さがやり玉に上げられたり、酒を断れないのが悪いだの批判を受けることが多いように思うのですが、死してなお無関係な他人がバカにするようなことは非常に不毛に感じます。そういってあれこれ言う人たちというのは、こういう事件について、暇つぶし、あるいは一過性のネタ、エンターテイメントとしてしか見做していないのかもしれませんね。ひょっとしたら、アルコール中毒で病院に搬送される学生がいなくならないのは、こういう背景があるのかもしれません。
と言いつつも、原則10名以上の飲み会と、およびそれで発生する騒音について拒否反応がある610にとっては、こういう事件が起こると何かしら書きたくなるものです。上に書いたように、死んだ当人の落ち度に対する批判は生産的になるとは思えないので、その人を取り囲んだ構造について意見を記しておきます。

まず、缶ビールを6本も7本も飲むような生活を日常的に行っている大学1年生というものが果たして存在しているのかというと、100人中5人いるかどうかも分からない位珍しいものでしょう。だから、これだけ大量の酒を飲むことについて、個人の判断を超えた非日常的な何かがこの学生を取り巻いていたことが推測できます。今回は恐らく打ち上げです。
この方は、サークルの大会が終わった後、アパートでメンバーと一緒に打ち上げを行っていたようです。サークルのメンバーが個人の家に集いう非日常的な要素に、サークルがもたらす経済力(=割り勘することで、たくさんのお酒が揃えられる)と年齢の違うメンバーが存在することによるヒエラルキー(≒年上の言うことに逆らうのがとても難しい)によって、大量の飲酒に向けた準備が整ってしまったのです。
お酒がたくさんあっても、それを断ることは恐らく可能です。しかし、これは論理的に可能なだけで、実現可能かというと別問題です。今回の場合も、断ることがおそらく困難だったのでしょう。もしかしたら、サークル内の伝統というものがあって、有無を言わさず飲酒が強要されたのかもしれません。そうだとしたら、伝統を壊すことは、入学したての1年生にとって、可能なことでしょうか。わたしが思うに、それただ一つの方法において可能です。しかしながら、その代償はとても重い。今回のように、死人が出ることで初めて、伝統が壊されることになるのです。

途中から伝統ありきでお話をしていますが、これは他の言葉で置きかえることもできそうですね。例えば、「上級生に逆らえない風潮」とか「個人の意見を押し殺し、全体の調和を優先する空気」でしょうか。だんだんと何を言っているのか自分でもよく分からなくなってきたのですが、今回のことで強く実感したことは、容疑者がどこにもいないということです。
学生の死に対する責任は、おそらくその場に居合わせたサークルのメンバーだけに帰せられないでしょう。打ち上げを行うに至る背景とか、打ち上げを行うメンバーの共通認識などに、彼らだけでは克服できない何かがあって、それが例えば「酒が無ければホンネが言えない」と語る人たち、未成年時代に酒を飲んだことを嬉々として報告する人たち、あるいは「自分の限界を知っておいた方が良い」と囁く人たちの存在だったりするのです。このような漠然としたことを思い切って否定するということは、個人はともかく集団であっても大変難しいものだと思います。

こんなことを考えていると、報道によってスポットライトを浴びせられる死亡した本人や、その時周りに居合わせた人たちだけが必要以上に批判をされてしまうことが何とも不憫だと思わずにいられません。ちょっと口を悪くすれば、普段あまりこういった問題について考えていない人たちが思考の準備をおろそかにしていい加減なことを口走っていたり、先述のようにネタとして消費しているだけのようにも思います。このこと事体は全く否定してはいけない―考えてからしか物を言ってはいけない、そんな言論統制が許されるだろうか?―のですが、しばらくはそうっとしておいた方が良いように思います。

あと言いたいこととしては、先に書いたように、深夜まで宿舎で騒いでいるような飲み会が嫌いなので、これを機に学内から飲み会が永久追放されることを願います。本当は、事件が起こってから禁止にする、というか、静かになるようでは未熟さがにじみ出ているようで悲しい気もするのですが…


Posted by Impulse610 at 18:10│Comments(0)
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