2011年05月16日

若くして死ぬのはかわいそうなの?

4時半起床。やっぱり微積分は「できたところまで書いて提出」するしかなさそうだ。

1限:森林
遺伝子レベルで森林を眺めると、例えば世界遺産に指定されている白神山地のブナよりも、九州の南限に生育するブナの方が遺伝的多様性が高いという。これはブナが日本列島に「北上」する形で進入したからだというのだが、ずいぶんハッとさせられる。

2限:社会学への招待
ガンのため33歳で亡くなったフリーライターのドキュメントのビデオを鑑賞。現代人の死に対する態度について考えてもらうためのものだそうで・・・このことについては後程詳述したいな・・・なんとなく追記に載せますビデオの放映時間は授業時間を上回っていて、後で行われるクラス代表の会議時間を1時間ほど勘違いしていたせいで見ることができなかったorz


昼休みに部屋に戻って午後の授業の準備。

3限:クラス代表者会議
雙峰祭の学類代表者を出してほしいとのことでなるべく1年生にやってもらいたいそうだが、生物の1年生は他学類に比べて「忙しい」ことで有名らしく、他学類の人がいるのならわざわざ忙しい(特に2学期は「物理学実験」が恐ろしいそうだ)私たちからいけにえを捧げなくてもいいではないかというのが話の流れだったが、どうしても1名は必要らしい。さて立候補者は出現するのかしら…

4~6限:地球学実験
待ってました地形図! 今日は断面図や分水嶺・谷を書き込んだり空中写真を見ながら河岸段丘の段丘崖判別を行ったが、生物1年のうちでもっとも地形図保有枚数の多い(と勝手に自負している)610でも歯が立たないのは「立体視」。浮き上がるように絵が見えてくる3Dアートは見ることができるのに、いまだかつて航空写真の立体視ができたためしがない。取り上げられていたのが何度も見たことのある片品川だったので立体視ができなくても地形の様子は分かるのだが、実体鏡(立体視ができる装置)を使って見てしまうと目の使い方がへたくそだなあとつくづく実感させられる。練習すれば見えるようになるのかなあ・・・

~・~・~

明日の放課後はたびてつのミーティングを欠席してバイオeカフェに行ってきます。
タイトルは「ホルモンで変わる脳と絆~恋はドーパミン、では愛は…?~」楽しみですなあ・・・うふふ❤

ちなみにこれはあくまで「社会学」のお話しなので、考えるべきは
・「死」が個人にどれだけの影響を与えるか
・その危機に対してどう対応するのか
について、「本当の自己が見えない」「異なった自己を演ずる」現代の人びと(若者だとしっくりくるのかなあ)がどう向き合っていくのかということです。ですのであまり内容には深入りしません。気になる方は「ガン 奥山」で検索してみてください。
この方は肺がんで余命2年と宣告されたのですが、死ぬまでの日常をブログで書き綴っていました。
ガンとの闘病というとどうも「悲しみ」「哀れみ」を感じずにはいられないでいる世間の風潮に対して、「そういう姿を見せるのは嫌だ」ということでひたすら日常を語っていく姿、および「死ぬことよりも忘れ去られてしまう方が怖い」という点については賛成できます。ただ私は同じような余命宣告を受けたとしたら彼と同じような趣旨でブログを書いていかれるかというと、それは未知です。

そういう彼の姿を映像として残してほしいと友人に頼んでいたのですが…友人としては日に日に衰えていく彼の姿をビデオで撮っていくことは辛いもので、いつしか撮影する意味を見失ってしまいました。
私はビデオに撮ってもらいたい彼の心情も、また撮っている友人の苦しさもなんとなく察することができます。この辺の言語化がずいぶん難しいのですが・・・

しばらく日記の更新が止まってしまって申し訳ございませんでした。
実は610は白血病にかかってしまい入院することになったのです。まだドナーが見つかっていないので最悪の場合を覚悟しないといけません。

と仮に日記で書いたとしましょう。
私としてはいつもの駄文の如く「あ、そうなんだ」位に流してもらって欲しいですし、自分が死んでいくことに関して哀れみや悲しみの気持ちを抱かれるのは困るのでよしてもらいたいのです。何というか、作業服でいることを特別視するのは構わないのですが、余命いくばくもない末期患者であることを特別視したり、死に関して610の前でしゃべっちゃダメだな、もう助からないのは分かっているけど「きっと610は助かるから」と囁く「心遣い」が嫌なのです。病室で平然と目前に迫る死について語り合うことの方がよっぽど気分がいいでしょう。

ですが、こんな日記を見た皆様は内心「あ、そう」とは思っていたくても、その気持ちを押し込めて何か大変なものを見てしまったと動揺することでしょうし、それから毎日弱っていく610の病状を観察すること、および直接会って弱々しい姿を目にすることでショックも受けてしまうでしょうし、私が「死について語ってほしい」といってもどうしても「ほんとうのこと」は言ってくれないでしょうし、中には「そんなこと言わないで!」と叫んでしまう方もいるかもしれません。


とまあ自分が余命宣告された時にはこんな風に思えるかもしれないのですが、立場が逆転して友人や大切な人が余命いくばくもないとしたら、私はその人の言うことを真に受け取れるかというと…その現実を受け入れることができないでしょうねえ…

~・~・~

社会学で考えるべき内容として上げた2つのこととはかけ離れているのですが(そういう経験が希薄だから仕方ないのかもしれないが)、どうでしょうか…
虫ばっか追いかけていると、こういうことを考えなくなってしまうのです…


Posted by Impulse610 at 18:10│Comments(0)
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