2015年01月01日

2015年の幕開けはろくでなしの人生から

昨晩は眠気に耐えられず22時過ぎに就寝.寝るまでは『これが生物学だ』の読み直しをしていた.第1章しか読めなかったが,生物は物理主義的なものでもなく,生気的なものでもない,遺伝的プログラムと創発という二つの特性を備えた有機体であるということを頭に叩き込んだ.そういう背景を踏まえ,形態学が還元主義的アプローチではなく全体主義的な観点から理解せねばならないものだというBOSSの主張を思い出しながら,ああつまりこういうことなのかと納得しようとしたのであった.
年越しそばや除夜の鐘,終夜運転,初日の出というイベントをことごとく放棄して9時起床.こんなにたくさん寝たのはいったいいつ以来のことだろう.そして即座に菅平の天気を調べて人生のはかなさを思う.降雪量の多さを考えると,夜~明け方に帰菅するような時間帯に出発してはいけない.朝 8 時くらいに信州に戻り,食料品を買って戻るのが妥当だろう.
本日は朝は晴れていたのだが次第に曇ってきたため外に行く気力がわかず,部屋で『これが生物学だ』を読み進めたり,長く寝たのにもかかわらず眠くて昼寝をしたりして過ごす.予測できていたことなのだが,ここで卒研関係の仕事をしようと思っても全くと言っていいほどやる気が湧かない.休む時間も必要なのかもしれないが,もはや610にとっては過剰ですらある.
どういうことかと言うと,直ちに帰菅してカワゲラへの隷属を再開すべきなのである.ただ,本日は天気が悪く年越しバッタも多摩川河口近くにいる水禽も見に行く気力がわかず,明日確かめなければならないことを思うと,もう 1 日の逗留を強いられてしまうのである.卒研生として従事すべき研究活動(デスクワーク)に専念できないとしたら卒研生として人生を過ごす意義を失ったも同然である.このろくでなしの我が人生に想いを馳せながらメモ帳に創成した無益な長文をここに公開して元旦の記事としたい.

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twitterでしばしば,「お気に入り登録をしてくれた人についてコメントをする」というイベントが生じます.私にとって,これは達成困難な出来事であると同時に,そうすることの意味を感じられずにいます.

まず,私は他者と交流する能力が,欠落とは言いませんが,著しく劣っています.具体的には,このブログにごくまれに現れるコメントに対して応答するのに膨大な時間が費やされ,年賀状の一言をひねり出すのに悠久の時間が流れていきます(その一方で,ブログの文章はほぼよどみなく創成されています).なので,その手の呟きが流れてきたとき,ある他者に対して,過去に交流した経験から何らかの印象を形成し,適切に言語化する能力(●●さんは××といった方で,△△だと思っています)に感心させられます.それを多くの人が,より多くの他者に対して,恐らく大した困難を感じずに行っているという現実からは,彼らの高いコミュニケーション能力を感じます.

さて,私はそういう能力については高く評価すべきだと思っているのですが,疑問が 2 つあります.なぜそれを(twitter上で)求めるのか,そしてなぜそれに応じるのか,とことです.

まず,前者についてです.簡単に言えば「コメントしてもらいたい人を応募する呟きをする」ことだと思うのですが,いったいなぜそういうことを行おうと思うに至るのでしょう.私にはそういう動機が全くないので,腑に落ちません.お気に入りに登録してくれた人に対してコメントを与えたい,コミュニケーションを図りたいという欲求の根源は一体どこにあるのでしょう.

そして後者について.「知り合いの誰かに自分についてコメントをしてもらいたい」と言うものですが,これも同様に不可解です.もちろん,私には他者から見た私についてのコメントを頂きたいとか,というより,ある人にどう思われているか知りたい,という欲求はありません.だから,ある人についてコメントしている呟きを見ると,なぜあの人はこの人にコメントしてもらおうと思ったのか不思議に感じます.
いや,でも,実は理解していることかもしれません.というのも,ここで,「読者の皆様はどう思いますか」と問いかけるとしたら,誰かからコメントをもらう点で共通の構造になります.
ああ,でも,これは求めているものが違います.「どう思っているのか」の内容が違います.twitterの件では「自分と言う人間」についてで,私の場合は「ブログの内容」についてです.私が欲しいのは意見であり,私についての印象ではありません.だから,私がtwitterを見て疑問に思っていることは理解できていないままです.

さて,書いているうちに思ったのですが,ブログで文章を公開していることは上記の内容と同義かもしれないと気付きました.つまり,誰かに自分の記事を見てもらって,何らかのレスポンスが欲しいのだと.ただもちろん,私はコメントをしてもらうために毎日のように更新を続けているわけではありません.じゃあなんでやっているのか,もはや今となっては習慣となりつつあって思考停止状態で続けている側面があるのですが,気分転換とタイピング能力の維持,およびアウトプットの練習と言ったところでしょうか.昔は誰が読んでいるのか気になったりもしたのですが,今となっては全くどうでもいいことに成り果てました.あと大事なこととして,私は記事を見返しません.いつどんな生き物を見たのか検索するのには利用しますが,本文を読み直すことはまずありません.
さて,写真を見てもらいたいという欲求は否定しませんが,それは写されている生き物を見てもらいたいだけであって,腕前の優劣に関する価値判断は求めていません.写りが悪いから改善してほしいなどと言う意見は有用ですが,上手に写真を撮りますね!という参照の言葉を頂いても,恐らくノイズとして処理されます.

まとめると,私はどういう形であれ,私と言う人間性に着目してもらいたいとは思わないようです.例えば,私は週7カワゲラ隷属生活を行っていますが,その事実から「研究熱心でまじめな学生」とか「それだけカワゲラに愛を注げるのは立派だ」という私に対する評価を導いてもらっても困ってしまいます.ぶっちゃけてしまえば,私はカワゲラに必要以上の愛を感じていません(イカルや干し柿に対する偏愛とは比較にならない)し,休日もやることが無いからラボに来ているだけです(既に実家でもやることが無くなり,帰菅したくて仕方ありません).
  


Posted by Impulse610 at 18:10Comments(0)