2012年08月03日

私を変人足らしめているものは何か

まずはこの画像をご覧ください。



これは今やその存在を知る者もいなくなったであろう、610が運営していたHPの掲示板に投稿された書き込みです。自分がよくあてはまっているように感じてはいたのでこの指摘も、ごもっともだなあと感じていたのですが、見ず知らずの人から障害者のレッテルを貼られると、けっこう心に残るものです。書き込みに応答した直後は何ともなかったのですが、だからと言って記憶の彼方に忘却することは無く、克明に覚えているのです。

おそらく書き込みなさった方はもう閲覧されていないとは思いますが(願わくば、書き込みをした当時から継続的にブログを読んでもらいたいものです)、念のため付記しておけば、私は【他人に障害があるのか指摘するときにもっとデリケートにするべきでは?】などと思っているわけではなく、とにかく投稿者へのいらだちというか、憎しみは一切ないことを申し上げておきます。

この日のブログでも紹介したサイト(こちら)があるのですが、今回日記を書く際改めて診断してみたところ39点を計上。やはり私は「健常」ならざる存在なのでしょうかね。

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で、今回日記にしたかったテーマは、最近気になっている二つの「自覚症状」がアスペルガーと関連があるのか、ということです。以下では無理に結び付けることはしませんが、然るべき人が読めば分かるのではないかと思います(読解は非常に面倒かもしれませんが)。

http://ashihara.tsukuba.ch/e166392.html
この日記でちらっと書いていますが、私は毎日のようにブログを更新していますが、平均的に文量が多く、かといって読みやすくはない(であろう)記事を量産しているのであります。
610は統計に疎いことと知人の内部事情を知らない訳ですが、少なくとも私に匹敵、あるいは上回る文量のブログを更新している人を知りませんし、もちろん膨大な日記をしたためている人も認識していません。要するに分母が随分小さいのですが、同世代の中でアウトプットしている情報量が有意に多いのではないかと思っていて、それがいわゆるハイパーグラフィアという症状によるものではないかと思い至ったのです。

そこで、ハイパーグラフィアに関する読み物として最も入手がたやすいと思われた『書きたがる嚢 言語と創造性の科学』を取り寄せて読んでみることにしたのでした。と言っても読み切っていないのですが、筆者によれば、ハイパーグラフィアの定義は以下のようになっています。

1 同時代の人々に比べて圧倒的に大量の文章を書く
2 外部の影響よりも強い意識的、内的衝動に駆られて書く
3 書いたものが当人にとって哲学的、宗教的、自伝的意味を持っている
4 当人にとっての重要性はともかく、文章が優れている必要はない

この本を読み進めているうちに、私が思っている以上にハイパーグラフィアの症状は激しいものであって、1日1回しか更新していない程度では病状扱いすることは出来ないのではないかと思うようになりました。むしろ、これはやはりアスペルガー障害の症例にあるような、話し言葉と書き言葉のギャップを端的に表しているものなののような気もします。そう、昨日の記事に書いたような、実習での話の出来なさと、それを淡々と回顧する文章の長さ… 論理的思考力云々ではなく、「言語能力とコミュニケーション能力とのギャップ」に起因するのではないかとも思えてきます。

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それから、もう一つ気がかりな自覚症状としてあるのが「人の目を見ていられないこと」です。
私と直に会話したことのある方ならお分かりのとおり、610は人の目を見て会話をすることがとても苦手です。大体小学生中学年のころには明確に人の目を見ていられないことに気が付いていて、中2?のころ友人に指摘されたのをきっかけに「人の目を見て話をする・聞く」というコミュニケーションの仕方に慣れようとそれなりに努力した結果、その人の顔の方をなんとなく眺めることは出来るようになりました。ただ、視線はいつも泳いでいるか、目が合ったとしても即座にそらすさまは、挙動不審と言われるに忍びないでしょうし、非常に奇異なものでしょう。

率直に言って、視線を合わせることに恐怖を感じます。

視線恐怖にもさまざまなタイプがあって、私の抱くものは「正視恐怖症」が一番しっくりきそうです。ですが、私の感覚と、その説明文には齟齬があります。
ネットで調べてみるところによると、正視恐怖というものは「自分の視線が相手に恐怖を与えていないか」と思うところに端を発するようです。でも、私の認識としては「話し相手の目が怖い」だけであって、自分の視線は問題にありません(思考の範疇外です)。鳥が目玉のマークを怖がるのと原理は似通っているかも知れません。誰かに襲われることなんて無いとは思うのですがね…
あと、誰かに見られている、とか、他人にどう見られて(思われて)いるか、については特に感じるものはありません。だからこそ突飛な行動が出来ているのかもしれませんが・・・

幸か不幸か知りませんが、私はこのことについて深く悩むことはありませんでした。環境に恵まれていたのかもしれません。それに、自分でもある種の開き直りというか、許容する余裕があったこと、そもそも「人の目を見て話すのが常識」という既成観念が無かったことも功を奏している(?)のかもしれません。

そうそう、私が話しているとき、大体いつも同じような表情をしていると感じたことのある方もいらっしゃるのではないでしょうか。なんとなく目を細め、口元だけぎこちなく笑っているようなひきつった表情を…
それはきっと、相手の表情を読み取れないことから来たある種の学習効果なのではないかと思います。無表情で人の話を聞くのは忍びないと(誰かに教わった記憶は無いのですが、無意識的に)でも思ってしまうのでしょうかね。

余談として、ほぼすべての人に対して正視恐怖を感じる610ですが、今のところ全く恐怖感なしに目を見て話すことのできる、こう確信できる人が1人だけいます。今回のテーマから脱線するのでそれがどういう人なのか、なぜそうできるのかは詳しく書きませんが、「1人だからこそ」とだけ表現しておきます。

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さて、六郷に帰ってきて『アスペルガー症候群』を読み返してみたところ、自分に当てはまる記述がザクザク出てきました。沢山あるので掲載は追記にまとめておきます。
もちろんここに挙げていないケースもザラにありますし、逆に追記に示したすべての例に当てはまっているからといって短絡的にアスペルガー障害だと言い切ることができないことも承知していますが、私の印象としては、ここまでズバズバと自分の思っていることが挙げられていると、ああ、症状の程度は分からないが、きっと何かしらの障害があって然るべきなあと思わずにはいられません。
ちなみに本書には診断のチェックリストもついているのですが、私の場合「特定不能の広汎性発達障害」なるものに該当しているように思います。

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皆さまは、こういう話題って【重い】と感じるものでしょうか。確かに、他人、というか、ある程度距離の近くなった人のコンプレックスになるような話を聞いて「そうでもない」とは思いにくいとは思います。
しかし、長文で書いている私自身にとっては【重くない】テーマなのです。何というか、人に指摘されて傷ついたり、隠しておきたい内容ではありません。慣れが不足しているので【指摘された事実】は尾を引いてしまいますが…

私が望むことは、皆さんがこの記事を読んで思ったことを私に伝えていただくことです。その程度は各自にお任せします(フラットでもよいし、真剣に考えていただいても構わない。障害のレッテル貼りで安寧するな! とか、あなたは本当の障害を分かっていない、などの批判も歓迎)が、なぜ皆さんの意見を望むのかというと、私にとって他人の意見というものは、ネットで検索して見つけたある意味で客観的なものより、このブログを読んで思ったことを主観的に伝えていただく方がはるかに心に残るからです。
もう少し自分勝手なことを言えば、実世界では口下手ということもあったり、またこの手の話題はお昼時に気軽にできるものでもないので(私としてはノープロブレムですが、昼食は自分の部屋に帰ってから摂ります)、ブログに書いているということもあります。それにつきあってくれれば私は嬉しいのです。  続きを読む


Posted by Impulse610 at 18:10Comments(0)