2013年12月19日

テスト期間にヘブライ語と哲学に浸る

今朝は7時半起床。今日はヘブライ語の課題を解いてしまおうと思っていたのだが、朝からやる気が湧かない。かといってマインスイーパ中毒になれるわけでもなく、長い間何をしたのか覚えていないが、きっと何もしないでいた後、課題を始める。今回は1題あたりの問題数がやたら多いこともあって、ノートに書き写すだけで1時間かかるし、しかも前にやった内容が徐々に抜けてきているようで、語形変化をしている動詞の語根を見つけ出すのにものすごく時間がかかってしまったりして、ヘブライ語をもってしてももともとないやる気のボルテージを上げるまでには至らず、けっこうな苦行であった。結局完遂させることができず、最後の問題(ノートに写すときには色々と書き込むため4行も間を取っているのだが、この問題だけで3ページくらい消費した)の途中で投げ出す。

そして哲学カフェが行われる図書館へ移動。どこでやるのかと思ったら、エントランスに椅子が用意されているではないか。こんなオープンなところでやるのかと驚かされたが、確かに哲学カフェの理念としてはオープンであるべきなのだろう。ただ、何となく気恥ずかしい感じがする。まあ知り合いに見つかる分には気にしないし、むしろ参加を促したいくらいなのだが、テスト期間中ということを感がるとそういうわけにもいかない。
ちなみに、オープンでやるときの最大の障壁は周りの騒がしさであった。いや、もちろん周りが静寂である必要は必ずしもないわけだが、話していることが聞こえないと成り立たないわけだから、これは改善というか方策を練った方がいいのだろう。

哲学カフェが始まるに際し、そばにあるスタバのスタッフがやってきてささやかながらコーヒーとケーキを振る舞ってくれた。なんだっけなあ、ふつうの豆ではなくて加工する前段階?のものを使っているとか、唾が出てくるような感じがするらしいとか、ケーキが合うんですよとかいう説明があったような気がする。

さて今回のテーマは「クリスマスについて」。参加者がクリスマスについて思ったこととか、印象のある出来事について話す。そういう話を聞いた後、哲学的な話が始まっていくわけだが、3時間に及ぶ長丁場、本当は時間が全然足りないと感じるところなのだが、要するに内容を逐一覚えているわけではない。その中でいろいろあったと思うことは…

・クリスマスって楽しまないといけない、みたいな強迫観念がある
・クリスマスよりもイブの方が重要みたいだね
・「あなたのクリスマスは幸せですか?」と問われている
・幸せかどうかを確認する作業

・クリスマスのためにチキンが必要、ケーキが必要、シャンパンが必要・・・ってなるけど、そうやって「クリスマスしている」ことを確かめている

・イブの夜に恋人と過ごすことが一番の幸せで、その次が友達、サークル、家族、ぼっち・・・そんな感じで、クリスマスの幸せのヒエラルキーみたいなのがある
・で、みんなはそのヒエラルキーの頂点に君臨する「恋人と過ごす」ことがいいなと思う。
・でも、ほんとにそれって幸せなの? 「一番幸せなイブの過ごし方」を演じている自分たちがいるだけなのでは

・「クリスマスなんて関係ない」という人もいるが、「関係しない」という所でクリスマスと関係している
・クリスマスを知ってしまった以上、クリスマスを超えた考え方をすることはすごく難しい

・「クリスマスを楽しむ人」もいれば「クリスマスを呪う人」もいる。いろいろいていいじゃないか。こういう考えって一見して冷静な立場にいるように見えるけれど、実はとっても危険な考え方(確か、いろいろある、ということで考えを止めてしまっているという意味で危険だ、ということだったような…)

・「年配の世代はね…」とか「アメリカのクリスマスはね…」とか「父親としてのクリスマスはね…」とか、色々な立場でクリスマスを見ようとしているけど、そういうものは関係の無いこと。「バブルのクリスマス」「アメリカのクリスマス」「父親のクリスマス」という枠を自分たちで作ってしまっている

・そういう枠なんてものは初めから存在していないのに、ここにいるみんなを含めて、誰もがそういう枠を作ってしまっている
・この枠にとらわれていると思っている自分の考えがどんどん流れ出していき、それが誰かのところに混じっていく。絶えずいろんな人の考えがまじりあっていくことで、そこから新しいものが見えてくる


―クリスマスのことを考えていると同時に、もっと普遍的なこと、根本的なことを議論しあっていることがお分かり頂けるだろうか。
残念ながら、ここに610が話したことは書いてない。哲学的なコメントができないのである。いや、自分が発した言葉があり、それは立派に哲学の一部だとは思うのだが、何というか話の本筋には乗れないのである。日々いろんなことを聞いてこのブログでああでもないこうでもないとかけるに至ったのは哲学カフェ関連の講義の影響が強いわけだが、それでもまだ610は粗いのである。能力とかセンスという言葉を排すると、これまであまりに人と話すことを避けてきたからなのだろう。まあ、気付いたら何ともなくなっているだろうから気にすることは無かろう。

~・~・~

さて明日の午前中は思索にでも耽っていたいものです。哲学カフェからの帰り際、生物哲学概論第一講「生き物を殺してよいのか?」について考えていたので、まとまればブログに載せようと思います。
で、午後は電顕が復活したのでバイトをしながら考え、夜はやどけんの代替え会に出ます。2次会か3次会で610家が使われる―Yさんが冷凍庫を見たくて仕方がないらしい―ので部屋の掃除もしないといけないですねえ…



Posted by Impulse610 at 18:10│Comments(0)
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