2013年12月13日

※私の恋愛偏差値は検出不能です

さて本日は7時15分に起床し、生き物の世話をしてからヘブライ語の課題に2時間取り組み、片付ける。
課題が終わり、いざ昼食(最近はサツマイモで済ませることが多い)を食べようとしていた時にある旅行会社から電話がかかってくる。私の携帯電話番号が知られていることが気に食わないだけでなく、610が会長に君臨していた時には一切旅行会社を使わなかったことからも対応がおっくうに感じられたのだが、今年の合宿先のマイナーさ加減(J君には申し訳ないが、一般的な大学サークルの集団が合宿地として選ぶことは無いであろう場所なので)とか現地集合というつかみどころのなさとか激安の下の格安料金であったことなどが幸いして、話し手を困らせることには成功したと思う。
次期会長さかなくんよ、これからこの手の勧誘が何度かやってくることであろうから-今のところ連絡先は知られていないはずだが-、必要性が感じられないときはあちら側の意図に乗らないようやんわりと断っておこう。「今年は人数が少なすぎて合宿ができません」というと、それ以上の追求はなされないだろう。これは実現してほしくはないのだが、ウソも方便という言葉があってだねえ…

さて午後から電顕バイトへ向かう。作業中の合間を縫って『眠られぬ夜のために 第一部』をちらっと読んでみたりしたわけだが、やたらと神を信仰することを説いてくる。このことは610にとって相容れないわけだが、信仰云々を考えないとすると、すごく深いことを言っているのがよく分かる。だから、この本はキリスト教色が強いから読むのを控えると言った態度はある意味で非常に損だろう。

人間は、エゴイズムがつねに自分自身に悪い結果をもたらすものだということを、理性をもって十分に納得しないかぎり、たとえ信仰がそれを教えても、多くの場合、それは生活に実際的な影響を大して与えない弱々しいものにとどまる。しかし、その深い理解を得た人は一大進歩をとげる。


先週の火曜日に哲学カフェであった出来事を思うと、この部分がとてもよく理解できるのである。筆者の意に反するが、610としては「信仰」を「哲学カフェ」に置き換えるとすごくすんなりくる。ブログを長い間読んでいる読者の方がいるのであれば、このブログでも進歩が起こっているような気が…してこないですよね(´Д`) 610は日進月歩、退化の一途をたどっています。

それから、あまり考えたくはなかったのだが、またもやクリスマスに関することを考えてしまった。今回はクリスマスに甘いひと時を過ごす恋人たちではなく、それをひがむ人たちに対する怒りに燃え上がった(この怒りが妥当とは思えないが、とにかく怒りを感じた)。
最初のうちは、「クリスマス中止のお知らせ」という文言に狂喜するような人たちは本当にクリスマスのことを良く思っているわけではないのだと思っており、それならそう思っている人たちがクリスマスをより良い日にできるよう取り組んでいくことができたら素敵だなあとか、恋人がいなくてもクリスマスを楽しめるようなひと時にできる力は、恋人がいない人、大雑把にいえばクリスマスに恋人と過ごすことに違和感を抱いている人たちだ下に与えられているものだと思っていたのだ。

ところが、現実ではそういう人はいないとはいかないまでも、ごく少数らしい。簡単に言えば、2013年のクリスマスを独りで迎え、クリスマスとかカップルを呪っていたような人が、2014年のクリスマスでは愛しの恋人と蜜月を交わすといった態度の転換が、ごく当たり前に起こるだろうということである。

これを思って感じるのは、自分がかつては妬んでいた恋愛に易々と身を沈めてしまう人たちの身勝手さというか、もっと正確に言うと、理解のしがたさである。あれほど、クリスマスのリア充たちを忌み嫌っていた人が、恋人ができるや否や嫌っていた側に進んでいくというのが分からない。なぜ、クリスマスに恋人と過ごすというステータスに拘泥するのだろうか。クリスマスが中止になってほしいと思っているのなら、恋人と協力して一緒に中止してしまえばいいものを、どうしてそうしないのだろう。上にも書いたが、この辺りで610には怒りを覚え始めたのである。

そもそも、クリスマスに恋人と過ごすことが恋愛だと思い込むのは、恋愛に対する視野の狭さを表しはしないか。クリスマスに恋人を求める程度の恋愛って、いったい何なのだろう。しょせん、そんなものは恋愛と呼ぶにふさわしくない、ただの世間体を気にしたゲームではないのか。
クリスマスを忌み嫌っている人たちは、こういうことにうすうす気が付いているだろう。だのにその気持ちを無視して、新しくできた恋人と一緒に、クリスマスという世間からの承認を受けることを優先する。う~ん、色々なことが分からない。だが、私が怒っているのがお分かりいただけただろうか。クリスマスを恋人と過ごすというゲームがおかしいと思っている人たちが、一度恋人ができてしまうとそのおかしさに目をつぶり、クリスマスを受け入れてしまうことは、彼らの怠惰なのである。そこがどういうわけか気に障るのである。

単純に言うと、彼らにずるさというか不誠実さを感じる。クリスマスとは無縁な恋愛だってあるだろうし、そういう所にだって素敵な恋人が見つかるかもしれない。なのにそういうことには目を向けず、ひたすらクリスマスという小さな湯船につかり込み、そこから出てこようとしてこない。ぬるま湯につかりながらクリスマスを呪うのはとても楽なことであるが、来年の今頃にはそこに恋人と一緒に入り込むのである。何と下品なことか。なんで愛しの人を、大切な人をそんな汚らしいところに招き入れてしまうのだろうか。

かつてぬるま湯につかっていたような人がすべきことは、恋人をそこに招き入れることではなくて、そのぬるま湯につかっていた自分のみじめさを誠心誠意こめて伝え、こんなところにいてはいけないと恋人を諭して、時には戒め、もっと快適な、2人が居心地の良い場所を求めて歩き出すことではないのか。
その結果として、クリスマスの居心地が良かったのならそこに落ち着けばよいだろうし、610の怒りは的外れだったと言える。ただ、思うにぬるま湯から足を踏み出し、実際にパートナーと色々なところを歩いた人は多くないだろう。なぜかというと、恋人もまた別のぬるま湯に浸かっていたからである。

だから、610としては今年クリスマスを呪っている人には心から呪ってもらいたい。そして来年、恋人ができたら、呪われたクリスマスから恋人を全力で守ってもらいたいのだ。それができるような恋愛は、きっと実りあるものになろう。

~・~・~

さてこの土日はテスト勉強なるものをしなければなりません。もっとも、真剣な対策が必要なものはそんなになく、分子進化学はその場で解決可能だろうし、発生生物学はいろんな分野とオーバーラップしているし、動物進化学特講は英語であるだけです。まあ、こういう余裕をかましていると点数に響くのかもしれませんが、今までの経験上何とかなるでしょう。せめて、TEXでノートを清書するくらいはしておきたいですが…
せめて、今日のようにろくでもないことを考えないようにはしたいものです



Posted by Impulse610 at 18:10│Comments(0)
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