2012年07月31日

生活リズムは改善されるのか?

さて、恐らく自室では人生初めてのイベントの徹夜をしてみたわけだが、えらく腹が減る。仕方なしに、帰るまでに処理すべき豆腐1丁のうち半分を何の味付けもしないで食べる。ご飯のおかずにするなら醤油なり味噌なりつけたいところだが、今回はこれで問題ない。しばらくしてから昨日の夕飯のおかずになったちくわときゅうりを処理。我ながら非常にヘルシーな夜食となったが、これは一般的に「夜食」のイメージとして思い浮かびそうな食材が何一つ無いからであることは昨日の夕食の様子からご想像いただけよう。
さてこの間にも『ヴェーダからウパニシャッドへ』を読了したのだが、これは東洋思想の授業で触れられた内容がより詳しく書かれていて(それでも著者曰く「アウトラインのアウトライン」であるから、実際のインド哲学はもっともっと深遠なものである)それなりに面白かったのだが、私としてはカタカナ語を多用するなら横書きの方が読みやすそうだなあと感じる。それにしても現代の様々な情報を前提としてしまった私たちからすれば、昔のインド人たちの考え方があまりに唐突すぎるように感じてしまう。

それは動く。しかしそれは動かない。それは遠くにある。しかし手元にある。それはこの全世界の内にある。しかしこの全世界の外にある。

これは「個人と世界との一元性」を表現しているそうだが、ただただ、ほほう、そうなのかと言うことしかできない。

徹夜の目的は生活リズムの修正にあるので、眠たくなっても我慢して起きていなければならない。食糧が枯渇している中、紅茶のティーバッグだけは豊富にストックがあるのでそれを飲み飲み眠気をごまかしつつ、読書を終えてパソコンに文章を打ち込んでゆく。これは610が生研+やどけん合宿で留守にしている間皆様に読んでいただく予定のものであって、例によって長文、しかも2本立てである。いずれも、コメントがいただけたら嬉しゅうございます。

紅茶+パソコン+東方vocal+ガムのカルテットはかなり効果があるようで、無事に夜明けを迎えられる。一応朝食を済ませてから、金欠ではあるもののやはりお菓子が食べたくなってしまったことと、六郷の水生生物用の水草を追加する目的も兼ねて買い物とタヌキモ掬いに出かける。往来も少なく涼しいこの時間帯に行動するのがいちばん合理的だなあなどと実体験して痛感するものだが、悲しいかな近頃の610は早起きができないのである。



帰りがけ体芸エリアにて人の気配を感じるなと思ったら・・・作品だった。この様子からして左側の人型オブジェ(正式には何て呼べばいいのでしょうかね)は夜間でも明るいままだろうから不気味度が増すのは間違いない。

この後何をしていたかいまいち思い出せないのだが、確かやどけん部室にノムラホイホイを取りに行って荷物整理をしているうちに一人では持ち帰れないということになって戻しに行ったり、30分だけ仮眠を取ったら昨日までの昼寝とは質の違う猛烈な眠気を感じたり、例によって荷物が膨大になってしまったりしてからバスに乗車。文字を読む気になれなかったので音楽を聞きながら目をつぶっているうちに寝ていたこともあったのだがそんなに長くはなかったようだ。
いつの間にか東海道線東京口から3ドア車の211系が姿を消したようだが、品川の車庫にまだ1編成残っているのを目撃したり、京急銀10006両Ver.がいつの間にか5編成も出揃っているようであったりと、身近だった鉄道の変革に今さらながら気が付く。たびてつに所属してはいるものの、あまりテツ分が補給されているわけではないようだ。興味が衰えているわけではないが、日ごろ鉄道とは無縁な生活をしているので勘が鈍ってしまったのかもしれない。
帰宅まずはゲンゴロウたちの様子を確かめ、ヒメゲンの数が減った気がするがおおむね元気そうで安心し、してしばらくのんびりして(気温が下がるのを待って)から蒲田まで散髪に出向く。前回の失敗を踏まえて、剃髪を行う以前の定番であった短めのスポーツ刈りにしてもらうのだが、この時ふとあることが分かった。そのことは追記に書くことにしよう。そして今回は散髪後の自分の外見にはまるで無頓着になれたのであった。



部屋を出た直後、階段の踊り場でアブラゼミが控えていたのだが、よく見るとセアカ型であった。何とか逃げられないよう捕獲に成功したので部屋に連れて帰る。セアカ型を見たのは高2の9月以来ということもあるし、せっかくだからこれは標本にしよう。

~・~・~

明日は荷造りや買出しをしなければなりませんね。そんなにすることは無いとは思うけれど・・・
早起きができるはずなので、ヒヌマ観察のついでにある直翅目、あるゴミムシも探してみようと思います。
それと生チャレ2010メンバーでの集まりがあるのかな?

前回散髪した直後、私は異様なほどに自分の見た目にこだわっていました。こんなことは普段全く意識しないこともあって我ながら強迫的で気味が悪かったのですが、髪を切る前の自分と、切った後の自分の変化があまりに激しいとそれが受け入れられないのだ、だから散髪後に見慣れた坊主に戻してしまったのだ、という結論が偶然にも散髪中に見出されました。

同時にもう一つ気が付きました。私が誰かが急に髪を染めた時に感じるあの悲しさというのは、実はこの急激な変化に対する受け入れられなさを、他人に投影したものに過ぎなかったのだということにも。

私は自他を含め、髪の変貌に対する耐性がやけに低いようです。


Posted by Impulse610 at 18:10│Comments(0)
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