2011年11月22日

善良な市民という「岩のような」相手

今朝は6時起床。そして本日ついに最低気温が氷点下に突入したようだ。そして寒い中自転車のパンク修理。これに手間取ってしまうのだが、ゴムをチューブにくっつけるときには矢鱈眼鱈にハンマーで打ち付けないことを学ぶ。
情報処理の授業はないだろうなと思いつつサテライトへ行ってみる。3つの部屋を仕切る壁が取り払われていないのでやはり無いようなので、T-ACTのレポートを書き図書館会館までの時間をつぶす。図書館ではロシア語の試験問題を一通り見直し、飽きてきたのでレポートを提出して部屋へ戻る。
本来は5日前に行われるはずだった来期の宿舎の入居者発表が今日まで延期されてしまったのだが、結果を見てみると自分の受付番号がしっかり載っているではないか。ということで来年も一の矢で生活できるようだ。ただ棟が今住んでいる場所とは違うので引越しは避けられない。

3限:ロシア語基礎A
直前になっても覚えられなかった「曜日」以外は大体再現できたのではないだろうか。書くだけ書いてさっさと提出、余った時間で書籍部にて面白そうな本を探す(買わないが)。

4限:IE
ノート返却。待ち時間中に中島義道の本で面白そうなものが大学図書館にあることが判明し、ノートを受け取った後に直行、『「音漬け社会」と日本文化』を借りる。

放課後:部屋に戻って帰省準備。明日の三回忌に合わせて喪服(≒スーツ)を着なければならず、これは避けられないあたりが苦しい。せめてもの憂さ晴らしに、折りたたんでリュックに詰め込む。
例によって高速バスにて東京へ出て、京浜東北線で蒲田まで。道中ずっと先ほど借りてきた本を読んでいるが、これがまた面白い。この本は中島義道と加賀野井秀一という人との書簡であって、それぞれの意見の一致・相違もまたよく分かる。中島さんはやはりすごいなあ…と感じる。

蒲田からこれまた例によって徒歩で六郷に向かうが、途中雑色(≒地元)のブックオフにて新書あさり。本を買うのは久しぶりだなあと思っているうちにあれよあれよとキープしてしまい、気が付けば9冊も買ってしまった。しかしながらこれらすべて1冊¥100で手に入るのだからありがたい。お菓子を一品我慢すれば数時間は時間も潰せる上に著者の世界に触れることもできる。線も引き放題(先の本など、線を引きたい場所がたくさんあるのに、借り物という点で加工するわけにはいかず、狂わんばかりに歯がゆい!)。
さて、年内に読み切れるだろうか…

帰宅後久々に鶏肉のから揚げを食べる。

~・~・~

明日は川越で祖父母の3回忌があります。これに参加するだけなら別に帰省しなくてもよかったのですが、つくばから行くよりも交通費が半分くらいに抑えられるうえに、食事や入浴の費用も浮きます。
本当は川崎大師の正月奉仕員のアルバイトの申し込みもする予定でしたがこちらは打ち切られてしまい、新年早々GXRを購入するという目論みは儚く崩れ去ってしまいました・・・
もはやほとんど秋休みモードなのですが、明日は出かけるまでは勉強しておこう。

さて・・・

『「音漬け社会」と日本文化』より気になった部分を引用してみます。
pp.80-81 われわれは、「みんな」が規則を守れば規則を守り、「みんな」が規則を破れば規則を破るのです。規則それ自体より、「みんな」のほうが数段重要なわけですから、「みんな」が規則を破っている限り、自分も規則を破ることには、ほとんど後ろめたさを感じない。むしろ、「みんな」が規則を破っているのに、自分だけ規則を守ることの方が、よっぽど後ろめたく居心地が悪い。もしかしたら、自分は「みんな」に迷惑をかけているのではないかとすら思い悩んでしまう。わが国の傷つきやすい人々は、規則を破ったから傷つくのではなく、「みんな」に迷惑をかけたから傷つくのであり、つまり、規則を破ることより「みんな」に迷惑をかけることの方が数段悪いと思って、傷つくのです。

―みなさま、心当たりがあるのではないでしょうか。親元を離れて大学生活を送る現役入学の1年生の多くは、「みんな」に合わせて居酒屋で飲んでしまうのでしょうね。これも、20歳未満の飲酒を禁止する法律を「みんな」が守っていないからなのでしょう。むろん、この「みんな」には610のようなものは含まれていませんが。

 どんな正しいことでも、わが国では、時と場所と誰に対して、さらに「言い方」をクリアしなければ誰も賛同してくれず、むしろ非難されるのです。逆に言えば、これらすべての状況をクリアして人々はやっと私の「正しい主張」に耳を傾けてくれる。いや、まだ甘い! 日本教信者はまだまだハードルが高い。どんなに言い方に気をつけても、結果として誰かを傷つけたら、もうアウトなのですから。そんなはずではなかった、とどんなに釈明しても「そういう鈍感さが許せない!」と怒鳴られ、足蹴にされ、追放されるのですから。
 こうも語ることに厳しい条件が課されるのですから、この国では小学校高学年あたりから、先生が「分かる人?」「わからない人?」「質問ある人?」と聞いても、シーンとして誰も押し黙って答えないのは当然のこと。世間の目は、二十一世紀の日本においても本当に冷たく厳しいものなのです。

でしょうねえ。この前成人式の式辞を取り上げましたが、あれだけ当たり障りのないことくらいしか公の場で言えないのでしょうねえ…「ほんとうのこと」を言ったら誰かが傷ついてしまうのですから。誰かを傷つけてまで自分の意見を主張できるような環境が、義務教育期間中まったく与えられていないように思えますが、そんな教育を受けた我々に「独り立ち」を要求するのは随分滑稽に思えます。誰も傷つけずに独り立ちはできるのでしょうかね。
ことほどさように、拡声器によるアナウンスは、肝心なところでは何の効力も持ちません。そのうえ、実質的な危機管理体制は少しも完備しておらず、これではどんなトラブルに出遭おうと、誰もが「見ざる・聞かざる・言わざる」を決め込むのも無理はなかろうと思いました。結局、駅の過剰アナウンスも、エスカレーターの注意放送も、子供たちの下校を見守りましょうと呼びかける防災行政無線も、すべては、きちんとした安全対策を講じていない当局の「アリバイ作り」と「おためごかし」以外の何物でもないと言わざるを得ないでしょう。

彼らの意見を聞いていると、本当に無駄があふれているなあとは思うのですが、実際にその音声に腹立たしさ、不快さを感じて抗議に出向きたくなるような怒りは覚えません。この辺は「みんな」と一緒かも知れませんね。でも、610には彼らの主張はもっともだと思います。駅のアナウンスも、エスカレーターの自動放送も、17時になると鳴る子供の帰宅を促すメロディーも、無関心な人にはあろうがなかろうが効果は無いのですから、無くて良いと思います。私はエスカレータの音声案内をきちんと聞いて、その通りに実行している人を未だかつて見たことはありません。目撃談、ならびに体験談を募集します(´Д`)

引用したところ以外にも、日本語独特の言い回しによる「感情的」になりがちな日本人とそうでない欧米人との、言葉の受け取り方の違いなどの文化的な考察も非常に面白いです。英語では一人称がIくらいしか思いつかないのですが、日本には私だの僕だのオレだのうちだのあたしだのワシだの我だの拙者だの予だの朕だの、たくさんありますよね。この一人称の多さが同じ内容を伝えようとしてもニュアンスの違いを生じて、聞き手のメンタルに影響するのです。




Posted by Impulse610 at 18:10│Comments(0)
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