2014年04月20日

忙しそうに見えても実情は怠惰

※本日の内容は追記に書いてあります。

菅平に来てからというもの1日があっという間に過ぎていき、何日前に自分が何をしていたのか思い出すことすらできない状況である。そりゃあかなり閉鎖的な空間で同じようなことをやっているから記憶があいまいになってしまうのかもしれない。ブログの内容もかなりかぶっているかもしれない。読み返せばいいのかもしれないが面倒だし元来自分のブログを見返して後の人生に役立てようと思いもしないので困ったものである。

同時に深く物事を考えられていない気もしていている。4月に入ってからのブログの記事を見返せば明らかだろうし、そもそも文の放つ雰囲気がだいぶいい加減になっているだろう。こうなっているのはひとえにカワゲラのせいであろう。ただこれがブラックな労働によるものだったら大変である。不合理に長期間拘束されると思考判断ができなくなり、考えるのが面倒になって現状維持を選択してしまうかもしれない。その点で、610は社畜のポテンシャルがあるというわけだ。これは少し後に出てくる記事の引用を見てもらえば何となくつながりが得られるだろう。


http://georgebest1969.typepad.jp/blog/2014/04/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E4%BA%BA%E3%81%AF%E6%A1%88%E5%A4%96%E6%80%A0%E6%83%B0%E3%81%A7%E3%81%82%E3%82%8B.html  日本人は(案外)怠惰である - 楽園はこちら側

怠惰というキーワードで色々な構造が見えてくるところが面白い。夕食に茹でたこんにゃくをおかずとすることを習慣としたように、610には一度何か枠にはまった出来事があるとそこに安寧して怠惰になってしまう傾向がある。そういう所に自覚的になって、このままBossにこんにゃく好きと思われていてはいけない、野菜炒めだって食べるんだということを知られるように怠惰な食習慣から脱却する必要があろう。
もう少し真面目に英語に関して書けば、「日本人は英語が苦手である」というフレーズを妄信して、英語力の低さを日本に産まれたせいにするような態度は、「英語学習に努力しない自分」を誤魔化すための怠惰だと言えよう。それで満足ならいいのかもしれないが、何となく610には勿体ない選択のように思える。
ただ上でちらっと書いたように、不合理な忙しさに身を投じてしまうと怠惰を選んでしまうのかもしれない。こんな不合理はおかしい、変えるべきだという意志とか気持ちの昂ぶりが生じない程度に心身がマヒしてしまうのだろうか。そうして夕飯のおかずにこんにゃくを出す程度に堕してしまい、さらに状況が悪くなってしまうのだろうか。

http://whatisascientist.blogspot.jp/2014/04/blog-post_14.html ぽろっ: 小保方さん、科学ってのはプロセスを楽しむもんだよ

理研が成果よりプロセスを楽しむことを許容しているような施設だったらこういう事件も起こらなかったかもしれないと思う一方で、純粋に科学的思考のプロセスを楽しんでいるような研究者(及びそのたまご)が大して評価の得られない業績しかない状況で研究者としてい続けられるとも思えず、怠惰なエリートがアカデミズムでも生き残りやすいのかなと思ってしまう。

http://www.nippon.com/ja/currents/d00118/ STAP論文騒動の背景を探る:「愛されすぎた」小保方氏 | nippon.com

なんだろう、もうここにきて610の思考も怠惰になってきたのだが、思うことはこういう事件が起こると二元論的な見方とかジェンダー関連の下品な構造とかそういうありきたりで薄っぺらい切り口で一時のエンターテイメントとして消費するだけで流してしまうのだろうなあということである。ああ、こうやってとても良い思考の題材になり得るものを、より良い科学のあり方とか科学と大衆との関わり方とかを考える機会になり得るものを、一時の祭りとして流していくのは怠惰にほかならないのだろうなあ・・・

http://salucoro.hatenablog.com/entry/2014/01/26/134917 川の水を飲んでいた女と呼ばれ - ハート♥剛毛系

こういう過去の体験談を見るのは辛いことである。特に610は夕飯のおかずがこんにゃくでも満足してしまうような人間―この記事でいえば川の水を飲んでいる男―であり、そのこととは関係が無いのだが、ご飯を作ってくれた人に対して感謝する概念が欠如しており、おいしいとかありがとうと言ったレスポンスができないのである。そのことをYさんにこっぴどく叱られ、ああ私はきっとパートナーができても不幸にしてしまうだろうなあと思うわけである。
あと何となく感じるのは、自分は喜怒哀楽の極端な表現をされることに戸惑いを感じるのではないかということである。たとえ最愛の人がいたとしても、何かをするたびに感謝をされたり愛情の確認をされたりすることを素直に受け入れられない気がする。全幅の信頼を寄せられているということが、本当に私のことを愛しているのだろうなという気持ちがひしひしと伝わってきても、相手の距離の近さとか、自分をさらけ出し過ぎている感じに待ったをかけてしまいそうである。
まったく、文章を書いていて私に暖かい血が流れているのだろうかとすら思えてくる。カワゲラと自己完結の世界に生きているのなら、沢の水とか菅平の冷たさが心地いいのかもしれない。



最近この動画が頭から抜けずにいて困っている。この馬鹿馬鹿しさがたまらない。
菅平に越してきてからしばらく音が出るものから関わりを断っていたのだが、不意にimpulseが沸き起こるものである。



別の研究室にいる先輩と同期N氏がアオゲラの声を聞いたというのが印象に残ってyoutubeで調べてみたのだが素晴らしい動画が見つかった。仰っていた通り猛禽のような甲高い鳴き声が聴かれるだけでなく、ドラミングの様子、その音もしっかり記録されている。つくばではコゲラとアカゲラをしばしば見たものだが、残念ながらドラミング行動に気付くことは無かったし、そもそも知らなかった。こんな奇妙な音を出しているのかと思うとぜひともこの目で見るか耳で聞くかしたくなってくる。
このブログを見ているかもしれないやどけんのメンバーにはぜひとも観察をしてもらいたいものだ。



ヤマドリ騒動を経たやどけんの一部メンバーにとってヤマドリはそんなに珍しい存在ではないかもしれないし、610も散策中に会えたら大喜びするだろうが、それは珍しさに起因するというよりかは自分の目撃回数が少ないからだろうとは思うのだが、ともかく山奥にいると思われているようなヤマドリがあまり人を警戒していない。放鳥していることも間々あるようでそういった影響があるのかなあとは思うのだが、ここで気になるのは「人なれしている野鳥を野外で見つけたときどんな気分になるか」ということである。じっくり見るのは動物園でしかできないようなものが間近でのんびりしているのを見られたらそれはそれで嬉しいだろうが、個人的には人なれしていない生粋のヤマドリに肉薄できた方が喜びを感じるだろう。
※生態系がどうとか世話をするのは人間のエゴなのかといったことを書けばよいものを、そこまで考える余裕がなくなってしまったのである。そういうのは将来有望なやどけんの後輩に任せよう  続きを読む


Posted by Impulse610 at 18:10Comments(6)