2013年11月22日

思考停止の楽園、それがソ連社会主義だった

今朝は8時起床。とりあえず論文を読もうとしたが頭に入ってくる感じがしなかったので放棄し、久々にwebページをいじる。とりあえず、ペテルブルクの昆虫に関するページはそこそこ充実させることができたが、おそらくこのwebページの存在意義を感じられる人はとても少ないであろう。なにせ、虫屋の目はどうしても南に向いてしまうのだから…

そして午後は電顕バイトに出かける。今日は大して考え事ができなかったのだが、浪人の経験が自分にとって本当に糧になっているのか疑問が生じ、「好きなタイプは?」と聞かれても答えることができないが、「嫌いなタイプは?」と聞かれればいくらでも挙げられることに気が付いた。

まず前者だが、610は浪人したことで中島義道に出会いこころを揺さぶられてしまった。それを沈めることができぬままつくばに来てしまい、聖なるロシアに対峙してしまったのである。まったく、ろくでなしへまっしぐらではないか。
こういう悲しい現実から、現役当時に農工大地域システム学科とは言わなくても、後期受験の弘前大学(学部学科忘却)に合格していたら中島本にもインチキおじさんにも会わなかったわけだから、幾分マトモな人間性を、人格を保っていられたのではないかと考えたくなってしまうわけである。恒常的に剃髪することもなかったかもしれないし(浪人したことで坊主に対する抵抗が無くなった)、そもそも現役時代はつくばへ来ることなど寸毫も考えていなかったのである。

そして後者だが、610は不幸にもつくばに来てしまった際、新歓の集まりか何かで自己紹介をする際、フェティシズムの発露を強制された。字義通りのことを聞いているわけでは無いようだったが、何でこんな愚問を投げかけてくるのか理解できなかった(これはもしかしたら、大学生活最初の「期待外れ」だったかもしれない)と同時に、まともな答えが浮かばなかった。周りにいた人は手がいいとか目がいいとか、黒髪ショートが至高(これは同期ではないが)などと言っていたと思うが、610にはこんな風に、異性のどこがタイプかを軽々と答えることができない。その一方で、祭や花火大会に恋人と行くとか、舞浜の施設やクリスマスを恋人と楽しむことに憧れを感じる(疑問を感じない、恋愛の通過儀礼だと思っている)ような異性はタイプではないと言い切ることは容易い。
何が言いたいかというと、610は別に女性を貶めたいわけではなくて、女性の体のある部分だけを見て「この人は自分のタイプだ!」という気持ちにはなれないのである。反対に「この人も”あっち側”の人なんだなあ」というように思うだけだし、恋愛対象になるかならないか、という俎上に乗るまでもなく、恋愛感情を通してその人を見ることが無いのである。
※ひょっとしたら、このことはもっと恐ろしくて、男女の別なく、恋愛以前に人間性から受け入れられない可能性をも含んでいる。このことについてはもう少し考えてから書きたいが、書くことはできるだろうか…
前々からこういうことは感覚で分かっていたのだが、昨日の授業で学類長が言い放った「そういったみなさんとは無縁な人が世の中にはいっぱいいるわけ!」という一言を聞いて、ああこういうことだ、と合点がいったわけである。
ものすごく飛躍してしまっている感じがするが、この間を埋めると以下のようになろう:
・好きなタイプを挙げられるということは、健全であるということ。悪く言うと、常識を受け入れられる寛容性があるということ。言い換えると、ろくでなしでないということ。
・好きなタイプを挙げられないということは、不健全であるということ。良く言うと、常識を受け入れられない偏狭性があるということ。言い換えると、ろくでなしであるということ。
※ここでは一応、恋愛のことを話しているつもりである。

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明日は宝篋山で水生生物の採集を行います。くだらないことを考えていないで、早く寝ましょう。  


Posted by Impulse610 at 18:10Comments(0)